水曜日, 2月 14, 2007

ポルポトに虐殺された人々

 プノンペン市の中心部に、古い高校の校舎がある。ポルポト時代に、ポルポトに非協力と見なされた「反革命分子」とその家族たちが監禁され、拷問され、粛清された場所だ。今は博物館となって、一般に公開されている(注1)。
 私がそこを訪れたのは、2007年1月25日。良く晴れた日の午後だった。明るい日差しが差し込む校舎の部屋の中に、鉄製のベッドと拷問道具がポツンと置かれ、壁には、解放当時の部屋の様子を撮影した写真が掲げられている。血まみれの死体。体を大きくくねらせ、足を突っ張り、顔をのけぞらせている。苦痛の極限とは、こういう事なのだろうか。そのまま息絶えている。とても人間とは思えない。南側の校舎(A棟)の1階から3階まで、このような拷問室が並んでいる。どの部屋にも、鉄製のベッドと、拷問道具と、壁の写真。明るい日差しと鉄製のベッドとのコントラストが、余りに眩しい。


収容所の部屋。開かずの間。
公開されていない部屋がいくつもある。

 西側の校舎(C棟)には、鉄条網が張り巡らされている。監禁室だ。広さ畳一畳程の狭い監禁室が、壁の両側に延々と並んでいる。人間1人がやっと寝られる位の狭さだ。窓のない部屋も多い。天井には灯りもない。トイレもない。木の板で仕切られた狭い監禁室が、校舎の1階と2階にビッシリ並んでいる。人間以下の生活を強いられた人々が、拷問され、殺されるために、その順番を待っているだけの部屋だ。人々は、何を考え、何を思って、部屋の中にいたのだろうか。拷問部屋からは聞くに堪えられない叫び声や泣き声が聞こえてきたであろうし、汚物の臭いも尋常ではなかっただろう。絶望。人は、こうした環境でも正気でいられるのだろうか。


監禁室。
両側に狭い部屋が並んでいる。

 西側と北側の校舎(B棟、D棟)に、虐殺された人々の写真が貼ってある。手錠をかけられ、正面を向かされ、首や胸には番号札が掛けられている。自分の娘のような若い娘もいる。自分の母親のような年老いた女性もいる。自分の妻のような年格好の女性もいる。自分のような中年男性も、幼い子供たちも。恐怖で大きく見開かれた目。おびえた顔。泣きそうな顔。歪んだ顔。睨み付けた顔。怒った顔。笑っているように引きつった顔。中には、本当に笑っているような顔もある。カメラから逃れるように体をよじった人。子供たちのあどけない顔。ここにいる人々は、皆、殺されたのだ。監禁され、拷問され、殺されたのだ。苦しみが少しでも短く、少しでも早く死に至ったことを願わずにはいられない。


殺された人々の顔写真。
このような顔写真や死体の写真を貼ったボードが何十枚も置かれている。

 ポルポトは、なぜこのような無力な人々を殺したのだろうか。しかも、単に殺すだけでなく、拷問までして殺したのは、なぜだろうか。年端もいかない子供や女性や老人が、ポルポトに対して強く抵抗したとは思えない。そんな人まで、なぜ殺す必要があったのだろうか。民衆の声なき声を恐れたのだろうか。人を殺すことが楽しみになっていたのだろうか。これらの人々を殺したポルポト派の人々の多くは、若い男であり、若い女であった。何を考えて、無抵抗な人々を、虫でも殺すように殺したのか。戦争は人を狂気に陥れると言うが、平和の時代には信じられないことが実際に起こる。カンボジア人を殺したカンボジア人。カンボジア人に殺されたカンボジア人。ポルポトの正義とは一体何だったのか。「正義」の持つ胡散臭さを思わずにはいられない。しかし、このようなポルポトの「正義」を支持したのも、カンボジアの民衆だった。
 この場所が高校であることが、何ともやりきれない。若者たちが健やかに成長する場所。若者たちの夢と希望に溢れた場所。なぜ、このような場所を苦痛と血に染めることができたのだろうか。ポーランドのアウシュビッツ収容所でも感じた、人間の合理性の残忍さを感ぜずにはいられなかった。無味乾燥というより、乾ききった、殺伐とした、空疎な、意識の恐ろしさ。人間の業とは言いたくない程の、不気味さ。無神経さ。


発掘された頭蓋骨。
校舎内の一室に展示されている。

 殺された人々の写真が目に焼き付いた。収容所とされた場所が高校であったことが、一層、私の気持ちを高ぶらせた。一睡もできずに夜を明かした翌朝、血尿が出た。白い便器が赤く染まるのを見て、ホテルの部屋が収容所の一室のように感じ、軽い目眩を覚えた。
 あの校舎には今でも幽霊が出ること、扉の傍にうずくまっている人の亡霊を見たり、夜な夜な不思議な音や声がすることを、カンボジアに以前から住んでいる日本人から聞いたのは、その翌日であった。日本に帰ってきた今でも体調が悪いのは、亡霊が私に取り憑いているからかもしれない。
 事実を知ることは恐ろしいことだ。事実を正面から見ることは耐えられないことだ。しかし、人間がどういうことをしてきたかを知ることだけが、人間の暴走を食い止めることができる。勇気を持って、事実を見つめる。そして、この事実を後世の人に伝えていく。事実を知ることがいかに大切かを、この校舎は雄弁に語っている。負の遺産も、人間にとって大きな意味を持つことを教えてくれる。
(2007.2.7)

(注1)トゥール・スレン博物館。入場料2US$。無休。
 ポルポト政権は、1975年4月から1979年1月まで、社会主義改革を強行した。この収容所には、約2万人が収容され、生き残ったのは、わずか6人だと言う。「地球の歩き方(アンコールワットとカンボジア)」にも掲載されている。



月曜日, 2月 12, 2007

カンボジアで会った転々移転型弁護士…弁護士の可能性を考える…

1 はじめに
 法整備支援事業の現状と問題点を調査するため、平成19年1月下旬に、5日間程、カンボジアのプノンペンに行ってきた。名古屋大学法政国際教育協力研究センター(略称CALE)のカンボジア人のテイリー助教授の案内を得て、有意義な視察をすることができた。 カンボジア視察については別稿の報告書に譲ることにして、本稿では、カンボジアで会った日本人弁護士に触発され、新しい弁護士のあり方について考えてみた。

2 JICAの長期派遣専門家に会ってみた
 神木(かみき)篤(あつし)弁護士は、42才。48期だ。プノンペン司法省の中にあるJICA法整備支援プロジェクトのリーガルアドバイザーを務めている。JICAの長期派遣専門家として、2005年から2年間、カンボジアで法整備支援事業に携わっている。落ち着いた、安定感のある雰囲気が漂っている。 私が神木弁護士に会った問題意識は、以下のようなものであった。発展途上の国や国民のために法律を作る活動は素晴らしい。しかし、弁護士がそれに長期間携わるためには、自分の事務所を閉めなければならないし、外国から日本に帰ってきた時の受け皿も無くなっていて、将来も心配だ。こんな状況で、3年間も海外で法整備支援に従事するには、相当の覚悟が必要だ。一体、どんな気持ちでカンボジアに飛び込んでいったのだろうか。また、3年後に日本に帰ってからの不安はないだろうか。 神木弁護士の経歴を聞くうちに、彼の考え方が見えてきた。神木弁護士は、1996年沖縄弁護士会に登録。JICAの法整備支援専門家研修を受講。2000年8月から12月までカンボジアでユニセフの児童保護活動に参加。2001年8月から岩手県の遠野ひまわり基金法律事務所(公設事務所)の初代所長に就任。2005年1月からJICAの長期派遣専門家としてカンボジアに赴任。


            (JICAのオフィス(右側が神木弁護士))

 つまり、これまで私がイメージしてきた弁護士のイメージとは全く違うのだ。弁護士は、一箇所に定着して、依頼者や顧問先と固い信頼関係を築いて、地盤を作っていく。それが、これまで私が抱いていた典型的な弁護士のイメージだった。私がイメージしていたのは、定着型の、地元密着型の弁護士だったと言って良い。これに対し、神木弁護士は地元も持たない、いわば、求められるままに転々移転して活動の場を求めていく、転勤型の弁護士だ。自分の法律事務所を持たないから、しがらみもない。新たな活動の場があれば、すぐ移ることができる。一箇所にしっかり根を下ろし、依頼者のために活動するのもやり甲斐があるだろうが、自分を必要とするところで、社会や市民のために力を発揮していくことの方が自分には合っている、と神木弁護士は明るく笑う。将来のあてはなく、不安といえば不安だが、何とかなるでしょう、またおもしろそうな仕事がありますよ、と全く屈託がない。

3 穴があったら入りたい
 目からウロコの、とても新鮮な気分がした。神木弁護士の爽やかな人柄のせいもあるだろう。自分の法律事務所をどうしようか、外国で法整備支援事業に参加しても自分の将来にとってキャリアアップになるだろうか、などと心配していた自分は、何と陳腐で、卑小かと、恥ずかしい限りだった。「夢は大きく、社会のために貢献したい。」言うは易く、行うは難し。地元に定着し、同じ場所に長い間いると、守るべき物が増えてくるし、何よりも、気持ちが保身的になる。夢は霧散し、志もいつか矮小化してくる。


       (カンボジアの料理店で。右から2人目が神木弁護士。) 

 もう一度弁護士をやり直せるとしたら、神木弁護士のような生き方も実に魅力的だ。求める人がいれば、世界のどこへでも行く。気概たるや、実に頼もしい。弁護士であるからにはそうでなくては。と思いつつも、簡単には決断できない自分が歯がゆい。神木弁護士のような、一箇所に定着しない、転々移転型の弁護士がもっと増えれば、このような弁護士を受け入れる活動の場も、もっと広がるだろう。 世界を相手に活躍している人間と会うと、自分の小ささに恥ずかしくなる。強い刺激も受ける。今は、その強い刺激にジンマシンが出そうで、とても落ち着かない。

4 新しい弁護士の可能性に向けて 

 問題は、法整備支援事業に限ったことではない。弁護士が弁護士任官するのも、法科大学院の教員になるのも、公設事務所や法テラスの所長弁護士になったり、任期付公務員や企業の役員や政治家になるのにも、同じ問題がある。いつまでも定着型の弁護士ばかりでは、弁護士がこのような様々な活動に従事することは、極めて困難である。 実は、私は、定着型の弁護士を念頭に置いて、同じ法律事務所に所属する弁護士が入れ替わりで様々な社会的活動に従事する、流動性のある、開かれた法律事務所を作りたいと考えていた。メンバーが交替で社会的活動に従事し、また、法律事務所に帰ってくるというイメージだ。今回のカンボジア訪問も、定着型の弁護士が短期間(1?2週間)海外に派遣され、交替で法整備支援事業に従事するスキームを作れないかという思いがあった。 ところが、今回、神木弁護士に会って、私の考え方が一変した。神木弁護士のような転々移転型弁護士が増えてくれば、「流動性のある事務所」は必要不可欠ではなく、転々移転型の弁護士が増えてくるまでの過渡的な役割を果たすに過ぎなくなる。私が考えているよりも早く時代が変わり、新しいタイプの弁護士が出現しつつあることを知った。5 時代は変わりつつある アメリカの社会では、優秀な人材が政官界と民間とを行き来する人材流動が当たり前となっている(「回転ドア」と呼ばれている)。日本でも、人材流動性のある社会が、そこまで来ている。我々弁護士も、社会の要請に応じてより大きな責任を果たすためには、我々の意識を大きく変える必要がある。「多少の勇気と好奇心」を持った第2、第3の神木弁護士が現れてくれば、我々旧来型の弁護士も、大いに刺激を受けることになるだろう。 Posted by Picasa

月曜日, 11月 27, 2006

ブナの森を訪ねて…第1回荒島岳…

荒島岳、ブナの原生林を行く

平成18年6月3日(土) 岩出・近坂・藤田 前夜発車中泊

6:00勝原スキー場-6:40最終リフト-8:15シャクナゲ峠-9:20荒島岳-10:50シャクナゲ峠-11:30小荒島岳-12:10シャクナゲ峠-14:00勝原スキー場




 荒島岳(1524m)は気の毒な山である。深田久弥の日本百名山に選ばれながら、評判は芳しくない。深田久弥は自分の故郷の山だから無理矢理百名山に入れたのだろうとか、能郷白山(1617m)より低く百名山に値しないとか言われている。
 ところがどうだろう。天野盆地から見える荒島岳は雄大で、実にどっしりとしている。勝原スキー場の中腹に広がるブナの原生林も立派である。
 どうやら、山麓のスキー場と山頂の反射板のせいで、実像以上に評判が落としめられていたのではないだろうか。初めて登った荒島岳は、日本百名山にふさわしい、福井を代表する山であった。




 スキー場の荒れた道を40分程登ると、最終リフトに着く。そこからシャクナゲ峠までの急な登りが、ブナの巨木を随所に見ることができるこの山の核心部である。ブナの若々しい葉が朝日の中で輝いている。ブナの梢を吹きわたる風もさわやかで心地よい。ブナのゴツゴツ、ザワザワとした樹皮も、手に暖かい。豊かな緑に包まれて登っていく。ホトトギスやカッコウの声。空気までからっと澄んで、心も軽やかになる。




 シャクナゲ峠(1204m)から荒島岳(1524m)までも急な登りが続いている。稜線には所々残雪も残っている。シャクナゲ峠から50分程で山頂に着く。なんと、あの評判の悪かった反射板がなくなっているではないか。人工物のなくなった山頂は実にのんびりしている。麓のスキー場も閉鎖されたようだ。荒島岳は、人間の手を離れ、本来の姿を徐々に取り戻しつつある。荒島岳が生き生きとしていたわけがここにある。私も、嬉しくなった。


【↑イワウチワ属:イワウチワ(岩団扇)/花期は4月から6月】

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木曜日, 11月 09, 2006

変貌する中国の司法…最新中国裁判事情…

1.はじめに
  平成18年7月30日から8月4日まで、名古屋大学法学部の宇田川助教授(中国法担当)と、中国の上海、順徳、香港を視察し、中国の法曹関係者や、中国に進出している日本企業の関係者と面談する機会を得た。今回の視察の目的は、中国において法律が公正に適用されているのか、中国の裁判は信頼することができるのか、中国に進出した日本企業がトラブルに巻き込まれた場合、どのようにすれば公正に紛争を解決できるのかを調査し、研究するというものであった。まさに、変貌する中国、進化する中国の実情を目の当たりにして、大いに驚くと共に、感ずるものがあった。我々が垣間見た中国の光と陰について、報告したい(以下の報告については、宇田川助教授から多くの示唆を頂いた。)。

2.「我々は、今は一番ではないが、日々進歩している」
(→中央左、白ワイシャツ姿が徐川裁判官)
  上海市高等人民法院で民事裁判を担当する徐川裁判長は、にこやかに、そして自信を持って答えた。中国の裁判は、法律が公正に適用されるのではなく、コネとか情実など人間関係が強く影響するのではないか、と私が質問した時のことだ。
「確かに以前の中国にはそういうこともあった。しかし、今は政府が多くの法律を次々と制定し、我々裁判官は、その法律を公正に適用している。万が一、不公正な処理をした時には、裁判官を監督する監察庁に苦情を申し立てることができる。我々は昨日までの我々ではない。確かに、今の中国の裁判制度に問題がないわけではない。しかし、少しでも進歩させようと努力を続けている。我々は、今は一番ではないが、日々進歩している。中国が人治の社会などという話は過去のことだ。今は法治の社会になっている。」
徐川裁判長は、物腰も柔らか。私の失礼な質問にも、にこやかに丁寧に適確に答えてくれた。
 中国の裁判官は共産党の意向でどのようにもなるお役人ではないか、という私の予想は完全に外れてしまった。誠実で温厚な人柄。有能な実務家が目の前にいる。
  実は、私が中国の裁判官に抱いたイメージは、決して良いものではなかった。それは、次のような事情を知っていたからだ。

3.文盲もいた中国の裁判官
  中国の裁判官は、以前は、能力にかなりの問題があった。裁判官になるために、法律の専門知識が要求されていなかったからだ。
  ここに、信じられないような、驚くべきデータがある。最高人民法院が、1983年に四川省において実施した調査によれば、四川省内の裁判官の中で、小学校以下の学歴の者が15%を占め、その内には相当数の文盲、半文盲の者がいたというのだ。法律の専門知識がないどころか、文盲の者でも裁判官が務まるというのは、どういうことなのだろうか。ここに、中国における「裁判」の意味を考える重要な鍵がある。
  日本においては、裁判官は、高度の教育を受け、法律の専門知識と高い事務能力を持つことが要求される。複雑・難解な当事者の言い分を整理し、争いのある事実を認定し、これに法律を適用して、公平妥当な結論(判決)を導き、紛争を適格に解決するためには、当然と言って良いだろう。これに対し、中国では、裁判官の主な役割は、刑事裁判にあった。刑事裁判を審理し、社会治安を維持する役割が、裁判官に期待されていたのだ。したがって、裁判官には、法律の専門知識より、中国の社会秩序を維持する政治的傾向が重要視されていたのだ。実際にも、軍隊や行政機関からの転出組が、裁判官の多くを占めていたと言われている。したがって、以前の中国においては、裁判官の質は低く、裁判も不公正なものがあったと思われる。
  中国で全国統一の司法試験が実施されたのは、1995年12月であり、それ以前は、裁判官の資格や能力について「空白」の状態にあったと言ってよいだろう。
  このような状態は、改革開放政策が実施されて以降、一変した。法律や法規が数多く制定されるのに伴い、裁判官に法的専門知識が要求されるようになったことや、裁判官の役割が、刑事事件の裁判から当事者間の紛争を法的に処理する公正中立なアンパイアへと変化することになったためである。また、1995年には裁判官法が制定され、裁判官になるための資格が、法学部を卒業していることや法律の専門知識を有することなど、具体的に明記されることにもなった。最近になって、やっと、裁判官に相応しい能力を持つ者が選任されるようになったと言ってよい。しかしながら、1995年以前に選任された裁判官は、解任されることなく、今もなお、裁判を担当している。1997年末の時点で、中国の裁判官の学歴は、大学学部卒業者は5.6%、大学院卒業者は0.25%にすぎない。中国の裁判官のレベルは、全般的には、まだまだ高いとは言えないようだ。
  徐川裁判官は、大都会、上海の裁判官であり、日本の高等裁判所に相当する高等人民法院の、しかも、民事裁判を担当する裁判官である。エリート裁判官の一人であることは間違いないだろう。都会の上級審の裁判官であれば、専門知識の十分ある、事務処理能力も高い、有能な裁判官に公正に審理してもらうことが、十分可能であろう。
  他方、地方では、まだまだ裁判官の能力は低いと考えざるを得ないだろう。中国の地方に進出した日本企業にとって、中国の裁判所、中国の裁判官は、不安要因の一つであることは間違いない。次回は、都会ではなく、地方、特に西部地区の貧困県の実情を調査してみる必要があるだろう。

4.中国に裁判官の独立はない
  今の中国に三権分立はない。日本のように、国会、内閣、裁判所が立法権、行政権、司法権を持ち、他の機関の行動をチェックする制度になっていない。人民の代表からなる全国人民代表大会が最高国家権力機関とされており、司法の独立や裁判官の独立は存在しない。

(↑中国の刑事法廷。左側のボードはインターネット画面を表示する。)
  裁判所に対する監督機関として裁判官委員会があり、法律の解釈について疑義がある時は、裁判官は裁判委員会に指導を仰がなければならない。しかも、裁判委員会の指示は裁判官を拘束し、裁判官は裁判委員会の指導に従わねばならない。また、担当裁判官は、院長、廷長などに指示を求め、その回答を得て、判決を下すことになる。
  三権分立は当たり前、裁判官の独立は当然といった文化に馴れ親しんだ我々からみると、極めて異常だ。これで公正な裁判などできるのか甚だ心許ない。しかし、これも社会主義国家の中国の一面の真実なのだ。
  今の中国では、2001年12月のWTO加盟により、各省庁が、次から次へと法律や規則、通達を制定している。日本以上の縦割り行政の中国では、省庁間の調整や法令間の統一性を考えることなく、次々に法令が制定されるので、法令間の矛盾や解釈面の疑義が多い。また、中央と地方との法規の統一性もとれていない。いきおい、裁判官が、法律の解釈について、裁判委員会や院長・廷長の指導を仰ぐことも多くなる。裁判官が中国共産党の枠組みから解放されることのない限界が、ここにある。
  8月末に視察した台湾では、台湾大学(日本の東京大学に相当する)法学部出身の者が政治家や裁判官になり、台湾社会の改革をリードしているという。台湾の司法改革も、台湾大学法学部教授だった翁岳生司法院院長と、台湾大学法学部を卒業した裁判官たちが中心となって推進されている。エリートが社会をリードする台湾と、共産党が社会を指導する中国と、この対比は実に興味深い。

5.裁判官とのコネを使う
  「当たり前のことだ。有能な弁護士なら、裁判官とのコネを持っていなければならない。」上海の辣腕弁護士(律師)は、こう言い切った。
  「中国の裁判官の資格は厳しくなり、質も向上している。倫理面も厳しくなり、裁判官に賄賂が通用する社会ではなくなった。」裁判所や進出した日本企業で、何回となく聞いた言葉だ。しかし、中国の有名な弁護士(律師)は、今でも裁判官との個人的なコネ、情実が裁判を左右するというのだ。しかし、さすがに、白を黒とする(明らかに敗ける事件を勝たせる)ことまでは出来ないという。白か黒か判然としない、勝ち敗けが微妙な事案では、裁判官に働きかけることが有効なのだという。確かに、裁判は証拠次第だ。そして、証拠の評価も裁判官次第である。こちらに有利な証拠を過大に評価し、こちらに不利な証拠は過小に評価してくれれば、結論(判決)も違ってくるだろう。ましてや、どちらに転ぶとも分からないような微妙な事案では、証拠を評価する裁判官のサジ加減1つに掛かっている。
  日本においても、裁判の道理は同じだ。我々日本の弁護士も、様々な方法で裁判官を説得する。我々との違いは、日本の弁護士は、法廷の中で、法律と論理を使って裁判官を説得するのに対し、中国の弁護士は、法定の外で、個人的な情実を使って、裁判官に働きかけることだ。出身地、出身大学、そして、日常的な付き合い。中国では、有能な弁護士は、こうした情実(コネ)を幾つも持っている弁護士だという。しかし、これでは、裁判の、そして弁護士に対する信頼を根本から覆してしまう自殺行為ではないのか。目的(勝訴)のためには手段を選ばない、法匪と同じではないだろうか。
  日本企業も、中国の有能な弁護士(律師)を求めている。コンプライアンス(法令遵守)が当たり前の日本企業にとって、この考え方の違いは大きい。日本企業の理念や考え方を十分理解し、日本企業のために最善を尽くしてくれる弁護士(律師)を探すことが中国で如何に難しいか。勝てる弁護士は必要だ。しかし、勝ち方がよく分かっている(時には敗け方もよく分かっている)、フェアで信頼できる弁護士はもっと必要だ。外国で、このような弁護士をどのように探せばよいのか。外国に進出する日本企業の法務部や顧問弁護士にとっての、最大の難問の1つであると言ってよい。
以上
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